「獨協学園天野貞祐記念室に寄せて」(小池辰雄)

「獨協学園天野貞祐記念室に寄せて」(小池辰雄)

天野貞祐先生の地上の御生涯は1884年(明治17年)、即ち獨協史スタートの翌年から1980年(昭和55年)、即ち獨協史百年の3年前に亘るほぼ獨協百年史と相重なる御生涯でありました。先生の御生涯は3期を以て構成されていると見てよいでしょう。

第1期は1884年生誕から獨逸学協会学校中学、一高、京都大学、同大学院、哲学研究室副手時代まで。

第2期は1914年(大正3年)を以て始まる七高教授、学習院教授、京大教授、甲南高等学校長、一高校長、日本育英会長を歴任して、教育界の総元締たる文部大臣時代まで。

第3期は1952年(昭和27年)から母校なる獨協中学・高等学校第13代校長、新設の獨協大学、更に獨協医科大学、獨協埼玉高等学校等々を合わせた獨協学園長を以て1980年に地上の御生誕を終えるまでであります。

茲に一言せねばならないのは、この獨協学園全般の構築を天野先生の念願に全面的に応じてその具現を見事に果たされた関湊理事長を、学園全体が深い感謝を以て覚えているということです。

天野貞祐先生の御生涯は、明治、大正、昭和三世に亘る獨協百年史に、先ほど触れましたように、年数の上でも内実の上でも、極めて関係の深いもので、天野を知らずして、獨協を語ることはできないのであります。(「目で見る獨協百年史」及び『獨協百年』全5巻 参照)

さて私はこれから人間天野先生の本質は那辺にあるかを、先生の御生涯の第1期に注目の焦点をおいて述べさせていただこうと思っております。

先生は獨協中学4年生のとき野球の試合で右足首捻挫のため、治療に月日を要し、休学のやむなきに至り、故里鳥屋に帰られたところ、生憎流行のチフスにお母さまと共に感染され、御母堂は、45歳を以て不帰の客となられました。17歳の少年であった先生は危うく助かりましたが、お母さまの死のため「絶望的」な悲しみに落とされました。お先真っ闇な先生でしたが、元来、本が好きである少年天野はあれこれと本に慰めを求めたと思われます。そのとき、「暗夜の光明」となった小冊子がありました。それは内村鑑三が明治27年(1894年)日清戦争勃発の夏7月、箱根の芦ノ湖でキリスト教演説会に於て語った講演『後世への最大遺物』でした。その本の結論は、誰でもできることしかも人間として最も大切な在り方でした。それは神を畏れ信じ、その信仰の力で愛を以てひとのために尽し、義を以て悪と戦う高尚にして勇気ある生涯である、というのでした。かくて内村鑑三のこの本に心をうたれたところに、少年天野の魂の新生があったことは、決定的な出来事でした。先生は更に内村鑑三の「聖書の研究」、『求安録』等を熟読されました。かくて、「一種の精神革命を体験した」と述べておられます。(『教育五十年』)。

中学時代、体力を鍛えるために始めた野球が躓きとなり、傷を負い、疾病に罹りましたが、神の不思議な摂理によって内村の本から豁然として魂の目覚めを得て、絶望が天来の希望に転じ、猛然と勉強にとりかかり、今度は気力と智力が鍛えられ、従って体力も回復し、休学4年のマイナスが逆に大きなプラスとなり、獨逸学協会学校中学編入の受験では一番で合格。卒業も学力、人物極めて優秀で総代として感謝の辞をドイツ語で而も原稿なしで、大村仁太郎校長、ドイツ大使臨席の面前で滔々と陳述した由であります。

先生は医師志望をおあづけとして、教育者、即ち人間形成の道を志して一高文科に入学しました。

この天下の一高時代に先生の魂の土台を更に強化した二つのものがあります。それは先生が雨にもめげず風にもひるまず、握り飯を携えて、あの本郷の一高の寮から、はるか西の方柏木の内村鑑三先生の日曜聖書講義を聴講に徒歩で通い通したことが其の一であり、岩元禎教授のドイツ語の授業でヒルティーの『幸福論』を学び、その宗教道徳に深い感銘を受け、教科書以外に、ヒルティーの原書を何冊も身読したことが其の二であります。(『回想天野貞祐』所載の「岩元先生の追憶」参照)。

即ち病気休学4年間と獨協中学高学年2年問と一高3年間で魂の宗教道徳的土台が確実に築かれたのでした。かくてかのマイナス4年は内面の世界で無量のプラスになったのです。このことは特に獨協の生徒及び学生諸君が心に銘記して人間の自己形成に資すべき事態であります。

さて驚くべき古典読書家岩元教授が一高卒業間近の天野に、教育者に成るというなら、哲学を学ぶべしと勧告し、哲学ならば京都に行けとの御指示によって、先生は京都大学の哲学科に入り、特にカントを桑木厳翼教授について研究することとなったのでした。かくてカント哲学は先生の終生の哲学的思惟の土台となりました。しかも先生はカントの『純粋理性批判』なる大著を日本で最初に訳した大業も果たされたのでした。

天野先生の智的精神内容は勿論ゆたかなものでありますが、先生は明治大正に亘っての日本の精神界の大人物内村鑑三からは、神を畏れ、人に尽し、悪と戦う高尚にして勇ましき人生道を、深いキリスト道から体受したこと、次にスイスの国際法学者にして宗教道徳的人格者たるヒルティーの宗教道徳の名著を幾冊も身読したこと、そして最後にプロテスタント信仰を魂の奥にもっていた大哲カント哲学を中心とした哲学精神を身につけたこと、以上三焦点が一如となっていたのが天野先生の魂の本質の相であると見ざるを得ないのであります。

かくて形成された宗教道徳的な力と哲学的智性が先生の中で「道理の感覚」なる言説、言論となり、実践となって生涯を貫かれたのでありました。京都大学教授時代、甲南高等学校長時代に軍部の横暴不遜なる者どもに敢然と戦われたのは、正に先生の宗教道徳と哲学的知性の顕現であり実践でありました。

先生が謂れる徳性の奥に哲学があることを見そこなってはなりません。

天野先生が色紙に、「敬天愛人」という、かの天を相手として生きることを大前提とした南州の名句を書いたり、福音的な「愛」の一語を書いたり、「一日の苦労は一日にて足れり」というキリストの言を書いたり、「仰いでは星辰の空、わが内には道徳の法」というカントの『実践理性批判』の終末の名句を書いたり、「過去には感謝、現在には信頼、未来には希望」という福音的な消息を書いたりなさったのは、先生の魂が宗教界、哲学界を故里とし、原典としておられる自然の現れであったのです。

先生は召天される正に一年前の3月6日に老衰のため床につかれましたが、地上の御生涯が終りに近づいて来た頃、私に突然「小池君、讃美歌を歌ってくれ給え」と言われました。私が「どれを歌いましょうか」とおたづねすると、「『主我を愛す』が好い」と答えられたので、「先生、あの歌は讃美歌のアルファでありオメガですね」といって、私が歌うとはじめて一緒に歌われました。おたずねする度にこの歌を心をこめて歌ってあげました。偉大な魂は童心をもっています。単純な偉大さなのです。

さて、この部屋に掲げられてある先生の幾つかの遣影を拝見すると「道理」の戦いを義の角度から戦う気魄を感ずるのですが、その奥に愛の心がかくされていることを見そこないたくありません。また先生の魂の眼は霊界、天界の絶対者たる神を、またキリストを仰いでおられることを瞑想せざるを得ません。

先生は決して御自身がひとから尊敬されることを手ばなしで悦ぶような方ではありません。そうでなく、先生をして先生たらしめた根源的なるものを静かに深く洞察し、獨協人各人が、自由に謙虚に自己形成をなし、人間として本当の生き方をしてゆくならば、それが先生の生涯そのものの悲願に応える所以であって、先生のよろこばれるところでありましょう。

天野先生まことにありがとうございました。

(獨協学園百年史編纂委員長1991年(平成3年)4月6日)