第2回入学式式辞
第2回入学式式辞
「大学は、学問修得による人間形成が大切」1965(昭和40)年4月14日
学生諸君、親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私は獨協大学の名において、諸君を獨協大学生として宣言いたします。
諸君は、これから我々と共に、同じ学問を志し、同じ学問と申しましたのは、別段同じ種類という意味ではないけれども、広く学問を媒介とし、同じこの場所において、同じように大学の理想の追求のために努力をするという意味において、我々の諸君は同志であると、同学であり、同業であり、共に、この獨協大学という教育共同体の一員として、お互いに協力し、勉学していこうというのであります。
父母の方々に、まずおめでとうを申したいと思います。長年ご丹精になったお子様方が、このとおり立派に成人されて、そして大学の学生となられたということは、本当におめでたいことだと存じ、お祝い申し上げます。
学生諸君も、多年志していたこの大学に入られたということは、また非常におめでたいことだと言わなきゃならない。我々の生きているこの現在というものを、普通には、すべて過去から考えるというのが一般の考え方である。経歴とか境遇とか。そうでなくして、我々の本当の生きた現実というものは、未来から制約されている。未来という要素が非常に大きな力を持っているというのが、歴史的な現実であります。我々の生きている本当の現在であります。
我々の生きている現在を力強く支配する未来といえば、イデア(idea 理念)であります。理念といってもよろしいでしょう。あるいは理想といってもよろしいでしょう。かつてプラトン(Platon, 前427-前347)が、「人間は天上においてイデアを見た。この世においては、そのイデアを想起する。思い起こすんだ」と言った、そのイデアを見ることができるのは、人間の実に特権であって、人間だけのできることであります。そういう意味で、めいめいがイデアを見なくちゃいけない。殊に若い諸君が将来に向かって、遠く自分らの目指すところを持たなきゃならない。普通の言葉で平たく言うならば、理想を持たなきゃならない。それはひとり個人だけではなくして、この大学というような教育共同体も一つの理想を持たなきゃならい。我々はその理想において、それを実現する仕方において、世間の一般の大学に追随せず、付和雷同せず、自分たちの本当に願うところの理想に向かって邁進しようと。その向かうところにおいても、その方法においても、自分らが生きた自分らの体験として、生きた力として、これを追求して行こうというのが、本学のまず出発点であります。
それならば、本大学は何を一体目指すかというならば、それは、教育基本法には「教育は、人格の完成を目指す」とありますが、実は当時、私も教育刷新委員会の第一特別委員会の委員であって、私は当時、「教育の目的は、人間性の開発を目指す」という発言をして、そしてその特別委員会がこれをみんな了承して、文部省に出したんですが、文部省が、「人間性の開発を目指す」というのは言葉が適さないといって、「人格の完成を目指す」というふうにしたんですが、私は今もって、「教育は、人間性の開発を目指す」。諸君はみんな可能性そのものなんです。その可能性を開発しよう。現実的ならしめよう。
そういうふうにして開発した現実的な人間というのは一体どういう人間なんだ。何を一体、どういう人間を目指して行くんだと言うならば、まず第1に、「良い意思を持った人間」。自分は是非良い人間になって、そして社会のために尽くしたいという、そういう心構えを持った人です。それがなければ、人間は到底良い人間とかいうわけにはいかない。どんなに才能があってもです。どんなにいろいろな力量があっても、その意味のよい意思を持たない人間は、決して良い人間とは言えない。例えば、才能というようなものは非常に尊いものではございますけれども、しかし、才能のある悪者といったらば、才能は非常に困るものになる。そういうことは決して、ただの考えられたことじゃなくして、我々の社会においても、才能がかえって社会を害しているという例は幾らだってあると思う。まして、敏速とか、健康とか、富とかいうような人生の宝というものは、その中心になるよい意思と申しましょうか。カント(Immanuel Kant, 1724-1804)が『道徳形而上学序論(Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)』という書物において、無条件によいものは何かというならば、それはよき意思だと。よき意思を除いて無条件によいものはない。ただいま申したように、ほかのものは人生の宝として言われているけれども、例えば勇気なら勇気というようなことは徳として言われているけれども、勇気のあるどろぼうなどと言えば、非常に困ったものになってくるというように、他のものはみんな条件つきであるけれども、よき意思だけは無条件によいものである。これは実に宝玉のごとくに輝くといって礼讃しておるんですが、そのよき意思をまず持つということが我々の教育の第一歩です。それがなければ、決して人間の形成ということはできない。
ところが、意思が良ければ良いということが非常に大きい要素をなすために、ややもすると、意思さえよければ、それで良いんだという、そういう考えが社会にありがちであります。どんな乱暴なことでも、どんな不秩序なことでも、目的が良いんだとか、その動機が良いんだとか、良心的だとかいえば、それで事が足るように言う人がありますけれども、決してそうではないのであって、もし動機が良いとか、目的が良いとかいうことが真理であるならば、五・一五とか、二・二六とかいうような事件を起こした青年将校のやったことも良いことであるに違いない。彼らは国を愛するからやったんです。近くは、浅沼さんを殺した少年のやったことも良いことに違いない。なぜならば、動機が良いんです。けれども、決してあれが良くないというのはなぜかというならば、知性が足りない、思慮が足りない。だからして、まず我々はよき意思を持たなきゃならないけれども、同時に思慮が大切である。知性が大切である。
例えば、我々の生活において、勇気が良いといっても、何が勇気であるかということは、そのところ、そのときにおいて違っている。親切が良いといっても、あるときはイエスと言った方が親切だけれども、あるときはノーと言った方が親切である。そういう意味において、思慮というものが実に人生において重大な役目を持っている。我々の形成せんとする人間は、2番目に思慮を持たなくちゃならない。
3番目に、豊かな情操を持つということが人間として非常に重要だということは言うまでもないと思う。4番目に、我々はみんな社会に立って活動していかなければならないから、その点において、知識技能力を持つということ。絵かきなら絵がうまいということ。教育者ならば教育力があるということ。技術(者)ならば、その技術が立派にやれるということです。そういう力をこの大学において養うということは当然のことだと思うんです。最後に、健康です。健康をぜひよくしていくと。そういう人間をイデアとして将来に眺めているわけであります。
繰り返して申せば、よい意思を持ち、明かな思慮を持ち、豊かな情操を養い、知識技能力を備え、健康を持った人間。けれども、そういう人間は我々が目指すところであって、だからしてむしろ、そういう人間になろう、なろうと努める人間。我々の人間形成というものは死ぬまで続くものだ。若いときだけが人間形成じゃないのであって、死ぬまで続くのが人間形成であるが、そういうことをどこまでも目指して、いわゆる努めてやまない人間ですね。そういう人間を自分らはつくり出していきたい。ここでいいというんじゃない。こういう理想的なことを描いてそれでいいというのじゃない、それを努めてやまない人間ですね。そういう人間をつくっていきたいというのが、獨協大学のねらいであります。
それでは、どういうようにしてそういう人間をつくるかいうならば、私は、人間形成ということの方法というものは、色々ある、いろいろな技術でもできるし、あるいは柔道とか、剣道とか、お茶とか、色々そういうことはすべて人間形成の一つの道だと思うんです。けれども、しかし、大学の人間形成の根幹をなすものといいますか、大学は学問だと思う。学問の修得ということだと思うんです。
旧制大学は学問研究の場であるが、新制大学は人間形成の場だとよく言われますが、その人間形成というのは、決して学問を離れちまった人間形成じゃないと思うんです。そうじゃなくして、我々の人間形成と言う場合には、一番大切なものは学問の修得ということだと思う。大学に入っても、何も学問を身につけず、色々のことをやって、それで人間形成だと言っているなら、私はもうそういうのは大学と言えないと思うんです。だから、我々は決して、色々な活動を軽んずるものではない。色々の活動はもちろん結構であるけれども、しかし、その一番中心になるものは学問の修得だということです。これは、私がこの獨協大学において一番重大な点だと考えていることであります。
よく、色々な活動、クラブ活動とかいうふうなものをやらなければ、友情というものは持てないように思う人もありますけれども、しかし、旧制高等学校などはみんなが、もちろん色々な活動をした人もありますが、学問の修得ということを通じて、みんな親友を得ています。私などもそうでありますが、高等学校時代にみんなそういう親友を得るということが事実である。今日のこの新制大学というのは、半ば旧制高等学校の持っていた役割、すなわち教養を身に付けるということを持っているものであって、その意味においても、学問を勉強していたから友達ができないとか、そういうふうなことはないと思います。要するに学問研究、あるいは、この新制大学では学問修得といった方がよろしいと私は思いますが、それが我々の人間形成の大道だということを強く申したいのであります。
学問というのは、皆さんがご承知のように、ただの個人的な知識ではない。そうじゃなくして、客観的な知識である。すべての人がそれを承認すべき知識である。人がすべて真理を承認するとは限らない。けれども、承認すべき知識である。学問は、一般的な知識である。いわゆるドクサ(doxa 永い間、習慣的にくり返され、社会的に定着した断言。真知よりも低い主観的認識)ではない。オピニオン(Opinion 個人的な意見)とか、マイヌング(Meinung 個人的な意見)とかいう、そういうものじゃない一般性を持った知識である。したがって、そういう知識を身につけるというのには、自分を捨てなくてはできない。自分勝手ではできない。幾何学の一つの問題も自分勝手では解けない。そこに大道に従っていくという、自己を超えるというものがなければ学問はやれない。
また、学問というものは、それぞれの範囲において真理を認めると、何人もここに承認しなきゃならない真理がある。どんな暴力をもってしても、どんな圧力をもってしても、どんな金力をもってしても、曲げることのできない一つの道がここにあるということを学問は教えると思うんです。我々が社会に生きていくときにも、どんな強い者がおろうとも、それに屈しない。強い者のおるときには、それにおべっか使っておいて、今日になるというと、かえって逆さのことなどを言っているのは恥ずべきことだと私は思っている。そうじゃない。我々は、そういう私を捨てて道のために生きるということを一番教えるものは学問だと思うんです。
したがって、そういう学問でありますから、実践に当たっても、理論において既にそうですが、我々の実践の生活においても、自分の我儘とか、そういうものを通すんじゃなくて、我儘を捨てて本当のものに従おうと。そこに本当の人間の自由というものがあるんだ。自分の我儘、外見、私欲、そういうものから自己を解放して、そして大道に従おうと。すなわち、自己を超越するというところに道徳というものの一番の根源もあると思う。我々の自由というのは、決して自分の我儘ということじゃなくして、我儘から自己を解放するところに自由というものがある。そういうことを教えるものは、私は学問だと思うんです。学問は我儘勝手にやったんではできない。我儘勝手を捨てて、学問の命ずるところに従うということによってできる。
そういうような個人的なことじゃなくして、個人的なものを捨てて、一般的なものを求めるということが、知らず知らず我々に一般的なものに対するセンスをつくると思うんです。全体性に対するセンス、トータリテーツジン(Totalitätssinn 全体性に対するセンス)とか、そういうものを我々に学問というものは作ってくれると思う。そういうセンスが大切なんです。個人じゃない、一般的なセンス、そのセンスがなければ、どんな立派な美術品を床の間へ掛けても、その床の間の美術品というのは一個の商品にすぎない。雪舟の軸を掛けて、それが何十万円しようが、何百万円しようが、センスのない人にとっては一個の物品にすぎない。どんな道徳的行為でも、道徳的行為に対するセンスがなければ、それは愚かな行為にすぎない。そういうセンスを養ってくれる。私を超越することを教えるという意味から、豊かな情操ということも養うことができるし、また自分の我儘とか、そういうものを捨てていこうというところに自分たちの健康というようなものをも維持することができると思うんです。
私はそういう意味で、私が目指すと言った、よき意思を持ち、思慮を持ち、情操を豊かにし、そして知識技能力を持ち、健康を養うという道は、その本道は学問の修得にある。そういう意味において、私は、この大学をやっていこうと思うのであります。
ご承知のように、カントが、以前の哲学はすべて、もしくは一般に言って、自然とか、そういうものが既にあって、それが我々の人間を動かすと。そういう考えに対して、今度はそうではなくして、学問の対象というものはこちらが作っていくものだ。自然というものはこちらが作っていくという。そういう今までは人間の主体というものがすべてとまっていて、周囲がすべて動いているというのに対して、今度はこちらが動いていくということを考えたので、それで自ら自分の哲学を「コペルニクス的転回」と呼んだことは有名だと思うんです。
我々も、日本の一般の大学が、私は決して個々の大学を非難しようとは思わない。一般の風潮を非難している。ただ入学試験、入学試験と言って、日本中の学校をみんな予備校にしてしまっている。そして、そういう予備校的知識があれば、それが偉いことだというような、入学だけが目的で、入ってしまえば、もうそれで目的が到達されたということに対して、これをひっくり返しちまって、入学は易しくする。けれども、入ったならばできるだけ勉強して、そしてできるだけ学問を身に付けていく。そういうように今までの行き方をひっくり返しちまおうということにおいても、あるいは、難しい語学をやって、どこでも使わないような難しい語学をやって、それから今度、社会に出て非常に困っちまうと、外国から学者が来ても、堂々と討論できる人などというのは幾人もいないというような、そういうやり方ではなくして、語学を身につけて、話すこととか書くこととか、そういうことを身に付けて、それで今度難しいことに及ぼうと。そういう点においても、ひっくり返してみた。
また、一般(的)にいって、若い諸君が、もう大学に入れば、何でも自分の勝手にやって、ものの規則とか、そういうものに従わないのが大学生だと、こういうふうに思うのが諸君に多いっていうんじゃないんです。一般的に世間の風潮であるが、私はそうじゃなくして、どういうことでも礼儀を守るとかいうようなふうなことを始め、すべての規則に従っていくとか、そういうことは大学生こそ、やらなくちゃならないんだと思うんです。
小泉信三先生が私に話しておられたんですが、慶慮義塾でもって塾長としてみんなの学生に向かって、例えば電車に乗ったら、あんた方立ってなさいと、こういうふうなことを教えた。そうしたらば教授の中には、「何だ、大学生に向かって小学校の生徒に教えるようなことを教えるのか」と言ったから、自分が言ったと。「小学校の生徒の知っているようなこと、中学生の知っているような礼儀でも、大学生が知らないから教えるんだ。大学生こそ知る必要があるんだ」と私に話しておられたけれども、私もそういう意味で、決して諸君を小学生や中学生として扱うんじゃない。大学生として立派に扱いたいから、そうするんだということを諸君はよく身にご記憶いただきたい。
要するに、諸君は今日から獨協大学の学生です。獨協大学というのは、何が獨協大学だと、こう言うなら、この土地が獨協大学だというわけではない。理事者が獨協大学でもない。教授が獨協大学でもない。学生が獨協大学でもない。みんなが一つになった全体というものが獨協大学だ。その全体の我々めいめいが一つの契機である。モメント(Moment 契機、要素)である。要素といってはまだ足りない言葉だ。生きた全体。獨協大学というのは死んだものじゃない。生きた全体。そういう生きたものだという、生きたものの一員だということをどうか諸君が理解してもらいたいんです。
生きた全体というものの、一人一人はそれぞれの持ち場があり、その持ち場において全力を尽くすということが生きた全体を発展させるということなんです。その意味で学生諸君も、この獨協大学というものは諸君の外にあって、諸君力ご日々ここへ通ってきて、知識をここから取っていく外にあるものだという、そういう物質的な考えじゃなくて、この獨協大学というものの一員が諸君なんです。諸君なくして獨協大学というものはない。獨協大学なくして諸君というものもないんだ。そういう意味をよくひとつ大学生である諸君は了解していただきたいと思うんです。生きた全体ということです。生きた全体一員というものは死んだ要素というものとは違っている。そういう意味で、諸君がみんなそれぞれの持ち場において、その持ち場を忘れるということが非常に間違っていることなんです。
マックス・シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)という学者がありますが、その学者がこういうことをですね、『宇宙における人間の位置』という、そういう書物の中で、これは非常に優れた書物で、ドイツ語を読む人はぜひ読んだらいいと思うんです。『ディー シュテルング デス メンシェン イム コスモス(Die Stellung des Menschen im Kosmos)』という。その中にこういうことを言っている。「動物の中で最も優れた動物でも、位置ということがよくわからない。例えば、犬は非常に利口だ。犬は一つの園の中におって、そしてその園を知り尽くしている。けれども、自分はこの庭のどこにいるかという、そういうオリエンテーション(Orientation 所在意識)がない」と。こういうことを書いておりますが、私は、それが非常に必要だ。つまり、人間にして初めてそういう一つの空間の中のオリエンテーションというものができると。
したがって、我々の住んでいる社会というのは、一つの精神的と申しましょうか、あるいは英知的と申しましょうか、インテリギベル ラウム(intelligibel Raum 英知的空間)と言ってもいいですけれども、知性的なラウム、空間だと言っていいんです。その空間の中におる我々は、それぞれの位置がある。学生は学生、教授は教授、学長は学長、理事は理事、それぞれの位置をよく知っているということが、これが人間の最も重要なことだと思う。そして、それぞれの位置において自分らの全力を尽くすということによって初めて、この生きた全体である獨協大学という生命共同体が発展をすることができると。
どうか諸君、新しくこの大学に入られて、この大学はまだ出発して2年ですが、諸君の力によって幾らでも立派な大学になれる。我々が何を一体尊しとするかということが尊いことです。この大学において我々が学問修得を方法として立派な人間になろうということにおいて、この大学に何も欠けるところはないと私は思っております。広い意味においてです。だからして、どうかひとつ獨協大学生だというプライドを持って、人間にとって最も大切なものはプライドでありますから、プライドを持って、そして愉快に学問研究をしていただきたいと思うんです。こういう獨協大学というような、そういうアイデアの―我々は一つのアイデアを持ってこの大学をやっている。(大学)に対する一つのセンスを持って。そこに値打ちがある。そういう何が値打ちだというセンスを持って、ひとつ諸君が愉快に学生生活をここで営んでいただきたいと思う。
私は、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)のこういう言葉が非常に好きでありますが、一本の果物の木がどういう果物を実って、そして、その果物がどういう形を持ち、味わいを持ち、匂いを持つかということは、木の芽生えの中に入っていると、こういうことを言っておりますが、繰り返して申しますと、一本の果物の木がどういう果物を実らせて、その果物がいかなる形を持ち、味わいを持ち、匂いを持つかということは、その木の芽生えの中に入っている。こういうことを言っておりますが、私は、日本の将来、また、まして、この獨協大学の前途というものは、この大学がいかなる文化の実を結んで、その文化の実がいかなる形を持ち、味わいを持ち、匂いを持つかということは、獨協大学の芽生えである諸君が日々どういう心構えでもって生活をするか、いかに生きるかということに含まれていると思う。そのことはやがて日本の前途がどうなるかということを含んでいると思う。
私は、この言葉を持って、私の話を終わりたいと思います。