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学長講話(7)「学問を通じての人間形成」1968(昭和43)年5月15日

「大学は学問を通じての人間形成の場だ」ということを、解説してみようと思います。

人間形成の場というけれども、一体人間というのはどういうものだと。私たちが人間であることには間違いないんですが、しかし、自分に近いものはよく自分にわかるかというと、わからない。例えば自分の顔なんていうものは、一番近いけれども自分にはわからない。それと同じことに、自分たちは人間なんですけれども、じゃ人間とはどういうものだというと、なかなかわからない。

そこで、私は、諸君も知っておられる「人権宣言」の第1条に、「人間は、生まれながらにして自由であり、その尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、相互に同胞の精神をもって行動しなければならない」と。この人権宣言というものは実によくできておって、この第1条が人間というものを非常によくあらわしているんじゃないかと思うんです。だからして、もう一度申してみると、人間は生まれながらにして自由で、その尊厳と権利においては平等だと。理性と良心とを与えられていて、相互に同胞の精神をもって行動しなきゃならないと。これを簡単に言うと、人間というものは、理性と良心とを与えられていて、そして、その尊厳と権利においては平等であるところの自由の主体だと、簡単に言えばそう言えると思うんです。理性と良心とを与えられていて、その尊厳と権利においては平等であるところの自由の主体だ。人間というものを、ごく簡単に限定しろといったらば、私はこの人権宣言第1条は非常によくあらわしているんじゃないかと思う。それで、ごく簡単に言えば理性と良心とを与えられている自由の主体だと。

理性というのは一体どういうものかというふうに考えてみるというと、理性というのは、一応我々の感覚的な働きと対した働きであって、感覚的に見るものでないものを見る力であるとも言える。

それでは、どんなものであるかというならば、例えば意味ということですね。意味ということを知るのは、感性で見るわけにはいかない、感覚で見るわけにはいかない。例えば「すべては流れる」と、そういうことを私が言うというと、諸君がみんな頭で、その「すべては流れる」という意味を考えているんですね。それを考える力が理性である。意味というのは非常におもしろいものであって、今、私は「すべては流れる」と、こう言ったけれども、「すべては流れる」と言わなくてもいい、「オール イズ フローイング(All is flowing)」と言ってもいいし、「アレス フリースト(Alles fliest)」と言ってもよろしいし、「万物流転」と言ってもいいし、それから、「パンタ レイ(Panta rhei)」とギリシア語で言ってもいい。この簡単なことを諸君がひとつよく考えてもらいたいと思う。意味は一つなんです。ところが、その感覚的な装いといいましょうか、そういうものはいろいろある。「パンタ レイ」と言っても、あるいは「アレス フリースト」と言っても、意味は同じことなんです、一つことなんです。ちょうど私が、今日は背広を着ていますけれども、モーニングを着ていても、和服を着ていても同じ私であるように、一つ意味は、いろいろな着物を着ることができる。いろいろな着物というのは、感覚的なものである。意味というのは、理念的なものである。したがって、言葉というふうなものは象徴だということが言えるわけで、意味という理念的なものを感覚的なものであらわしますから、言葉は象徴だというように言えるわけであります。

ついでに、象徴ということをお話ししておけば、象徴というのは、簡単に言えば、その理念的なものを感覚的なものがあらわしているときに、その感覚的なものを象徴と言う。例えば「このマイクロフォンは、現代科学の進歩を象徴している」と言えば、現代科学というのは頭で考えることであって、目で見えるわけにはいかない。目で見るときには、いつでも象徴を通じて目で見るのである。例えば「獨協大学は秩序を象徴している」と、こういうことを言うならば、秩序というものは目で見るわけにはいかない、それを目で見るのには、獨協大学のような整とんしているところを見るということである。そういう意味というようなものを頭で考える力が、理性だと言っていいと思う。

そういう理性というのは、人間の最も大切なものであって、古くから人間というのは理性的な存在だと、こういうように言われてきていることは、諸君がみんな知っておることである。だから、理性を養うということは、人間性を養うという、最も大切なことだと思うんです。その理性の最も中心的になるものは、知識である。意味の世界というのは、知識の世界である。そういうものを自分たちが身につけるということは、人間を養っていくということだと思う。

人間形成ということは、いわば一生の私たちの事業であって、私たちおのおのが自分の個性を伸ばして、そして、できるだけの可能性を現実的にするということが人間を形成していくということであって、その人間の中心をなすものとして理性ということを言うならば、学問というようなものは理性を養う最もよい手段だと言えると思うんです。

人間は、いろいろな手段で持って形成される。けれども、大学というところは、学問によって人間を形成しようという。学問をやるということは、第一に、知識を持つことでありますが、これは皆さんがまだ若いから、十分まだ体験されないんでありましょうけれども、しかし、知識を持つということぐらい、人間にとって私は幸福なことはないと思う。

私などは、この年になってきて、何が一番今までで幸せなことかと言えば、親が私を教育してくれた、私に学問をする機会をつくってくれたということは、私が最も親に対して感謝していることであります。皆さんはまだそれほどそれを感じないかもしれませんが、しかし、皆さんが自分でよく考えてごらんになれば、こういう大学に入って学問をするという、そういう機会をつくってくださったということは、あなた方の一生にとって私は最も大きい幸福だと思うんです。人間として生まれてきて、そして、人類の天才のつくったいろいろなものを理解できるということぐらい幸せなことはないと思うんです。

私たちはお互いに、『万葉集』も理解することができる、『源氏物語』も理解することができる、『論語』もわかる、『中庸』もわかる。そのほか、自分たちはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, l749-1832)を味わうこともできる、ヘーゲル(Georg W. Friedrich Hegel, 1770-1831)を味わうこともできるし、シェークスピア(William Shakespeare, l564-1616)を味わうこともできる、こんな幸福なことは私はないと思う。

かつて若い学生が鎌倉で自殺したときに、私のごく親しい友達が、「どうして彼は自殺するんだろうか、もし彼がプラトン(Platon, 前427-前347)を少しでも知っていたらば自殺などしないだろう」と私に言ったことがある。それはもちろん一面的であって、必ずしもそういうことが全面的な真実ではないけれども、そういうプラトンを知るということは、生まれてきたかいがあるというふうに私の友達は思っている。そういうように、皆さんが何か一つのことをよくなされば、これを理解できたということで生まれてきた値打ちがあると、こういうように皆さんはきっと思うと私は信ずる。

私などは幸せにして、子供のころ、漢籍を習ったり、また、中学校でドイツ語を習ったり、高等学校に入っていろいろな書物を読むことを覚えたり、大学に入って哲学を習ったりして、非常に自分はその点幸せだと思っておる。

私の知った者で、長年官吏をした人が私にこういうことを言っている。あなたは実に幸せな人間だと。年を取ってもいろいろな書物を読んだりなぞするという楽しみを持っているんで、あなた方は実にうらやましいと思うと言った人があるんですが、皆さんも、そういうように学問をやるとか、書物を読むということを身につけるということは、実にこの人生の最も大きい幸せを身につけるということだと思うんです。

そういう意味でも、この大学生活というものを、皆さんがどうか、何か違ったことをしなければ大学に入った値打ちがないというようなことじゃないんで、大学へ入って皆さんが一つの語学を身につけたということだって大したことだと思うんです。一つの世界を持つことだと思う。そういう意味で、日々の学ぶことが皆さんの人間を深めていくということは事実だと思うんです。

昔から、知識というものは非常にたっとばれたもので、東洋でも「知仁勇」と言ったり、あるいは、ギリシアでは、「四つの徳」の第1は知識で、知恵で、第2は勇気で、第3が節制で、第4が正義と、こういうようなものをギリシアでは「四つの徳」と言っていたんですが、そういうようにいつでも知識というものを重んじてきているんです。

人間が理性的な存在なんですから、知識を重んずるということは当然のことなんですが、ところが、知識というものを狭く解釈して、そして、しばしば日本では知識偏重だとか、そういうことを言われている。戦時中なぞはひどいものであって、知識偏重だと。もっと腹のできた人間をつくらにゃいけないと。けれども、知識のない腹のある人間ぐらい、社会で剣呑(けんのん)な人間はない。頭が暗くて、そして、すぐものを行動するという人間ほど社会のやっかい者はない。今日は5月の15日で、五・一五と言って、青年将校という、考えは激烈だけれども、知識の足らない人が集まって、日本の偉い政治家なぞを殺してしまった日なんです。

そういうように、知識というものを軽んずるけれども、知識がない、ただ腹があるとかいうようなものほど危ないものはない。ただ行動することを知っていても、その行動を指図していく知識がなければ、とんでもない行動になってしまって、自分をも不幸にするし、社会をも不幸にするというような例は、今日の五・一五という事件を考えてみてもわかるんです。よく社会では、そういう行動をする者に対して、非常に精神が純粋だとか、情熱があるからというようなことを言いますけれども、それでは五・一五事件をよいと言う人がおるかと。だれもいないと思う。

だからして、いかにただ純粋に良心的だとかということでは、人間の行動というものは批判できない。そうじゃなくして、それを指導する理性というものが発達していなくちゃだめだ。理性というものは、そういう正しい判断をする力でもある。これは、人間というものが、ある意味では非常に難しい存在者である。人間は動物でもなく、神様でもない。動物に宿った神だとも言えるし、神を宿した動物とも言える。そういう人間というのは、非常に難しい存在である。だからして、それを指導する力がなきゃだめだ。そういう指導する力は理性である、知性である。

よくひとつ皆さんは、そういうことはもちろん知っておられるでしょうけれども、ただ良心的だとか、善意だとかいうだけでは足りない。良心的とか善意とかいうことは必要な条件であるけれども、必要にして十分な条件ではない。我々は、良心的とか善意とかいうものを指導する理性の力がなければならない、知性がなければならない。そうでないというと、自分をも不幸にするし、社会にも混乱を起こし、自分の親をも不幸にするという、そういう事件は世間にたくさんあると思うんです。

人間は、ただの動物でないからして、未来に対していつでもアイデアを持ち、力を持っている。動物の世界というのは、ただこのあるだけの世界であるけれども、我々の世界は、ないところも知っている。そういう意味で、人間は神にかたどっておるということができるんです。

我々の現在というのは、決して物理学で言うような、我々が物理学で習った、初等の物理学が教えるような、ただの瞬間ではないんです、人間の現在というものは。(板書)我々はいつでも未来にアイデアを持っている。現在におりながら、こういうところにアイデアを持って生きている。動物であるならば、こういう先は見えないんです。けれども、諸君もみんな、自分で考えてみてもわからないでしょうが、みんな将来にアイデアを持っている。そういうところで、こちらに向かった、現在というものがこういうものを含んでいる。また、もちろん我々は過去を持って、過去からいろいろなこういうものを現在に、こういうところに自分たちは生きている。こういう過去と未来との衝突しているところに自分らは生きている。

だから、人間が生きるということは、決してやさしいことじゃない。ここでいかに生きるかという。いったい、少し哲学的に考えてみれば、未来というものは、ここにあっては未来じゃない。未来というのは先のものだ。けれども、全然現在にいなかったら未来でもない。未来というのは、先にあって、しかも現在にある。そういう矛盾したものなんです。

過去というものもそういうものであって、過去は過ぎてしまわなくちゃ過去じゃない。しかし、全く過ぎてしまったら過去じゃない。過ぎていくしかここにない。まだ来ていなくて来ているもの、そういう時間の中に自分たちは生きているんだと。だから、こういう現在と過去の衝突しているところに生きているから、人間の生涯というものは、決してただ安楽とか、安易とかいうものじゃない。そこに人間存在のまた意味がある。過去を背負って、しかも未来をはらんでいるというのが、我々めいめいの存在で、諸君のめいめいがそういう存在である。そういう存在に、よく生きていくということはどうしてできるかというならば、我々の知性を磨くということが、その大きなことだと思う。

どうか諸君が、よく世間の者が、青年は純粋だとかいって青年を褒めるけれども、ただ純粋だけじゃだめだということですね、ということをよくひとつお考えいただきたいと思う。純粋だけではだめであって、それならば、五・一五の青年将校たちもみんな立派な人間であると。また、あの行動も立派でなくちゃならない。みんな、国を愛するからああいうことをやっている。正義のためにやったり、真理のためにやっている。けれども、その考えている真理とか正義とかいうものが、浅薄な、物の道理を知らない真理や正義である。

だから、我々は、自分たちの行動が本当によくあるためには、人生というものは、なかなかわからないものだということを、知らなくちゃならない。これをソクラテス(Sokrates, 前470-前399)が「無知の知」と言っている。自分の無知を知るということが、それが第一歩なんです。我々は、自分らの無知を知らなくちゃだめです。自分らが無知であるのに、それが知識があると思っていたらば、非常に間違ったことが起こってくる。それは、若い諸君に対して言うだけじゃなくして、私ら歳を取っている者でもそうであって、無知の知ということが非常に重要なことで、無知を知るということ。

ソクラテスが、自分はほかの者と違っていることは、自分の無知を知っていることだと、こう言った。つまり、知者というものは、自分を知者だと思っている。けれども、愛知者、知を愛する者、哲学者というものは、その自分の無知を知っている者が哲学者であり、哲学的でなくちゃならない存在である。

くどいようでございますけれども、そういう意味で、自分たちは、ただ情熱があるとか、それからして、純粋だとか、それだけでは足りない。それは必要条件で、それがなきゃだめだけれども、必要条件であって、それが必要にして十分となるためには知識がなきゃならない、理性がなければならないということを、よくひとつ若い諸君はお考えいただきたいと思うんです。

よく世間で批判ということを言う。この間、私はある学芸学部の先生に聞いたんですが、そこの先生が子供に対して、あなた方はご両親に対して批判的でなきゃいかん、ご両親を批判しなきゃいかんと子供に教えた。そうしたら、子供が家に帰って、「おとうさん、先生から批判せにゃならんと言われたけれども、どうしたらいいでしょう」と。そういうのは最もこっけいな話ですけれども、批判というようなことは、一番知識を必要とすることです。

ご承知のように、カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は自分の哲学を「批判哲学一クリティツィスムス(Kritizismus)」と言った。カントが『純粋理性批判(Kritik der reinen Vemunft)』の序文の中に書いておりますが、自分の哲学は批判哲学だと。けれども、これは書物を批判するとか、人を批判するとかという意味じゃない。そうじゃなくして、人間の認識能力というものは、どれだけの範囲において認識ができるかということを検討することが批判なんだと。

従来の哲学というものは、初めから人間の知識というものは何でも一様に認識できると思ったと。例えばこの自然現象であっても、あるいは神とか、自由とか、そういうふうなものであっても、同じように認識できるというふうに思った。また、ある者は、初めから人間には知識というものは得られない、客観的な知識、普遍妥当的な知識というものは人間には得られない、そういう考えがあった。前の哲学を独断主義と言うなら、後の哲学は懐疑主義だと。

自分の哲学は独断的でもない、懐疑的でもない、そうでなくして、まず人間はどれだけの範囲の認識ができるかということを追求するのが自分の哲学なんだと。すなわち、これをほかの言葉で言えば、「おのれ自身を知れ」ということなんです。おのれ自身を知るということによって、初めて批判ということができるんだというように、カントは言った。

そういうようにして、カントの研究したところによれば、この自然の対象というようなものと、人間の自由とか、神とか、そういうものとは全然認識の性質が違っている。いわゆる対象認識というものでは、決して自由というものは認識できないんです。また、神というようなものも認識できない。そういうように、カントは従来の哲学がしてきたところの神の存在の証明というものを、みんなそういう証明が不十分だということを明らかにして、そして、神というふうなものは、そういう自然認識と同じ方法では認識できないということを言った。

そういうようにして、例えば自由というようなことでも、決して自由というものは自然認識では認識できない。そうじゃなくして、我々のこの道徳生活というものが自由の存在ということを明らかにすると。自由というものは、我々の道徳生活の実在理由ではあるけれども、それを認識する認識理由というものは我々の道徳生活だというように、認識の種類というものを明らかにした。そういうふうに、批判をするためには、まずその知識を持っていなきゃならない。どうか諸君もひとつ、何事かを批判しようというならば、まずその知識を持つことが必要だと。

例えば哲学を批判しようというなら、哲学の知識を持たなきゃならない、学問を批判しようというのなら、まず自分は学問をやらなくちゃならない。そういうようにして、知識を持って初めて批判ということができる。

そういうわけで、このカントが当時、なにも知識がなくして、むやみに判断をする者に対して、判断をくだす前に研究することの定義という、そういう文章を書いている。『プロレゴーメナ(Prolegomena 哲学序説)』というカントの書物を読むと、そこに、「断定をする前に研究をするという定義」ということを言っている。断定をする前には研究をしなきゃならん。断定をする前には知識を持たなきゃならない。そういう、私はいろいろな社会現象とか、いろいろな事柄に対して判断をしていくというための知識を供給するのが、この大学の任務だと思っております。

そういう意味において、大学というところは、知識を通じて、学問を通じての人間形成の場だというのも一つの意味でございますが、それがすべてじゃない。そうじゃなくして、我々は学問をやることによって、忍耐力を養ったり、また、物に対する確信を持つということを養ったり、そういう直接な道徳的な意味というものも非常にありますけれども、まず第一に、我々が学問を通じての人間形成は、知識を持つこと。

どうか諸君が、この大学に学ばれる間、落ちついてひとつ学問研究ということをなさって、学問を学んで、そして、それからいろいろな批判ということをするというようにしていただきたいと思うんです。我々は、学問をしないで学問を批判するわけにはいかない。ちょうど、泳ぎを知らない者が、幾ら泳ぎの本を読んだって泳げるようにはならない。水の中へ入らなきゃだめだ。自分たちが学問をするには、学問という水の中へ入らなきゃだめだ。自分がそこに没頭してやって、そして、初めて学問というものはやれる。

そういうような意味で、広い意味で、人間形成ということは、学問を通ずるということを主体としてやるのが大学で、もちろん人間形成は学問だけでやるわけのものじゃない、いろいろな人間形成のやり方がある。部活動というようなものも一つの人間形成でありますから、諸君が部活動を盛んにやるということを私は何も反対するものじゃない。けれども、大学の人間形成の中心は学問にある。ただ我々の情熱とか、良心とか、そういうものだけでは到底人生というものは乗り切れない。そういうところが人間の苦しいところでもあるが、またそれが人間の特権でもある。

また機会を得て、その次の話をしようと思う。今日はこれだけです。

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