開学式祝辞

「独立の学風の樹立を!」森戸辰男(昭和42年5月6日)

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「独立の学風の樹立を!」
森戸辰男 16分6秒(7.39MB)

今日、このドイツ協会(獨協)大学の開学式に参列致す栄誉を得ました私は、まず学長先生はじめ関係者の非常なご苦労によりまして、この精神的にも物質的にも立派な大学が開設されましたことに対しまして心からのお慶びを申し上げます。

私は、伝統のあるこのドイツ協会がドイツ文化と教育とを日本に広めようという大きな意図と伝統につきまして申し上げる資格ははなはだ不十分でございますが、私自身戦後の新制大学との関係を申しておりまする立場から心からお慶びを申したいのでございますが、それはこの大学が開拓者的な建学精神と厳しい現実的な教育方針を通して日本の大学に清新な気風と実践を吹き込んで下さることを深く期待するのでございます。

今日の日本の大学の数はたいへん増えまして、260程になっております。いわば大学ははなざかりの盛況と申してもよいでしょう。しかし大学が量的に急に増えたからといって、それとともにその質が向上する訳ではございません。かえってその質の低下が心配されております。しかもそれよりももっと心配なことは最近のひんぴんと起こっておりまする大学騒動が、大学の本質をすら危機に陥れていることでございます。まさにこの時点において、獨協大学が開設されたことは、日本の大学界にとりまして、極めて意義の深いものと私は信じております。

私自身は永く天野学長先生とご昵懇に願っておりますが、特に終戦後の教育改革期におきましては、いろいろの機会に先生に接し、ご意見をうけたまわって参りました。勿論先生は戦後の民主的教育改革に大賛成でございました。しかし、個々の問題につきまして、しかも重要な点につきまして、必ずしも先生のご意見が十分に戦後の教育に反映されたわけではないと思います。中教審の前身であります教育刷新委員会においては、戦前の高等学校の評価と新制度の導入につきまして、天野先生のご意見が十分傾聴されたとは言えなかったようでございます。

次に先生が会長をしておられました当時、中央教育審議会に大学教育の改善についての諮問がございました。私はそのときに主査をしておりましてよく記憶しておるのですが、その際先生は大学教育の改善について幾多の優れた識見を述べられました。そしてそれらは大学院大学の構想等答申の重要な部分をなしておりますけれども、しかしここでも先生の考えがそのまま答申にもられた訳でもございません。恐らくその訳は日本の大学の現状に鑑みますと、それをそのまま直ちに改善策として提案することが困難であったからでありましょう。先生は定めしこの点でご不満であったと私は思っております。しかし、他面から申しますと、大学改革を含めまして戦後の教育への先生のこのご不満が、大学制度の一般の改革の形としてではなくて、日本の大学の中に独自のひとつの大学を造って、先生の構想を実現しようという意欲を盛んにしたのではないかと思っております。

このドイツ協会(獨協)大学は古い伝統がございますと同時に戦後におきましての先生の教育と大学の在り方、したがって教育改革と大学改善の現実の姿に対する批判と不満の結晶であると考えられますし、その建設的な成果であるとも思われるのであります。それだけにこの大学の開設というものは、先生にとっては色んな思い出と同時に大きな喜びがあると存じますし、またしばしば十分に先生の期待に添いえなかった私どもにとりましても、本当に嬉しいのでございます。

ご存じのように今日も式辞でうけたまわったように、獨協大学の開拓者的な性格は、高邁な建学の精神と現実で厳格な教育方針に現れております。建学精神の第1に掲げられておりますように、この大学はなによりもまず、「学問を通じての人間形成の場」であることを意図されております。学問が栄えて人間が荒廃する大学は、本当の大学とは言えないのではないでしょうか。しかも今日の大学にはこの危険が非常に大きいのでございます。にもかかわらずこの点を率直に認め表明する大学の数は少なく、かりに口先でそれを言いましても実践的にこれを改革することに踏み出すものはさらに少ないのでございます。恐らく確信ある大学教育者が少ないからではないかと思います。この点におきまして、獨協大学が天野先生を持たれたことはこの上ない幸福だと私は考えておるのでございます。ただこの点はあまりに明白でありますので、私は建学の精神の内、二つの点、即ち「国家社会への優れた創造的奉仕者の育成」と「全学的教育共同体の確立」についての私の所見を述べさせて頂きたいと思います。

一昨年、東大で国際大学協会の総会が開かれました。その時、この総会で私共の得た一番大事なことの一つは、大学が公共に奉仕する社会機関であって、象牙の塔ではないということでございます。このことは、当時の大学の自治に関する基礎資料を作られた、グラスゴー大学のヘクター卿がはっきりとこのこと申されているのでございます。

民主国の民主的な大学は、社会・国家との間に不信と敵対ではなくて、理解と協力の関係が打ち立てられなければならないのでございます。国家・社会は大学を助けるとともに大学はまた国家・社会に奉仕する責任があるのでございます。残念ながら日本の大学の多くは大学の社会的責任を、国家社会に対する責任感が十分感得していないのではないかという感じが致すのでございます。

例えば、学長の申された入学試験の問題に致しましても、これは日本の教育の癌と言われておる程の大きな大問題でございます。ところが、日本の大学はこの癌の治療に積極的に自分が進んでやろうという考え方が、少なくとも国立大学においては、非常に少ないように感ぜられるのであります。国家も社会も多くの父兄もこの癌に非常に悩んでおりますのに、公共機関としての、社会機関としての大学が、これに対して関心を持つことが薄いということは私には理解できないところでございます。幸いに本学はこの点につきまして式辞にはっきりと申されたように、この大学のもつ社会的責任をこの点において、十分に果たそうという強い意図を持っておられることに敬意を持つものでございます。

第二には、大学が全体的な教育共同体であるという点でございまして、今日の大学の最大の憂いは、理事者と教師と学生とがバラバラになって、一体としての大学共同体が荒廃しておるということでございます。多くの大学におきましては、管理者は、財政と経理の事ばかりに専念し、教師はまた生活の手段として学問を切売をしており、学生はまたただ学校に出て、あるいは学校にあまりでないで沢山な単位を取り良い成績で大学を卒業しようとする、こういうような人達が集まって大学がはたして立派なものになりうるでしょうか。かような大学にいくら国家が経済的な援助をしても、設備が完備しても、それだけで良い大学は生まれてこないのではないか。

数年前、カリフォルニアの前学長のクラーク・カーさんが、アメリカの今日の大きな大学はもはやユニバーシティではなくてマルチバシティになっておるというふうに言われたことがございます。そこではもはや学者と、教師と学生との統一のある共同体ではなく、大学内外に纒まる諸集団の統一のない、しばしば矛盾する、寄り合い所帯になっておる、いわば集合大学、烏合大学であると言う意味でございます。我国におきましては巨大大学だけでなく、弱小大学までもこの烏合大学になろうとしておるようでございます。そうしてかような大学共同体のない烏合大学におきましては、大学の個性も学風も生まれません。大学の自治も愛校心も愛学心も育たないのでございます。それ故いくら立派な建学の精神が掲げられましても、もし大学共同体が確立されていなければ、ついにその成果を修めることができないのではないかと思っております。堂々たる建学精神をささげて国民と政府に祝福されて発足した大学でも、もしこの全学共同体が、教育共同体が確立していなければ、しばしばその使命のみならず機能をすら停止しなければならないような状態にも陥ることがあるのでございます。

幸いに本大学は天野学長そして理解のある理事者と良い教師と良い学生とをもってこの全学教育共同体の建設に邁進されておることを私は大変喜びと致すものでございます。この大学の学風を確立し山の上の城として、日本の大学に新風を吹き入れて項くことを私は強く期待致すのでございますけれども、そのことは決して容易なことではございません。その為には学長が先頭に立たれて、理事者、教職員、学生が一体となって、この大学を命の通った倫理的・文化的・教育的な共同体と確立して頂いて、独立の学風を樹立して欲しいのでございます。

開学のこの良い日に、天野学長先生始め、理事者の方々、教職員の方々、また学生諸君にこのことを特にお願いし、また期待致しまして、私のお慶びの言葉と致したいのでございます。

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