獨協大学のねらい

学問を通じ人間形成の場に 天野貞祐

大学教育の問題点

わが国の大学教育一般について次の諸点に問題がありはしないかと思う。

問題の第一は入学試験に関係する。大学入試のために高校も中学も、さらに小学校までも、すべて入学予備教育に終始し、本来の教育がはなはだしく歪曲(わいきょく)されている。教育の全精力が受験準備に傾尽され、しかも多数の浪人を出し、その結果予備校や塾(じゅく)が繁盛をきわめ、しかのみならず予備校に対しても入学難があるというような古今東西に類例を見ない奇怪な事象を生じ来っていることはあまねくひとの知る所で、この一事をもってしても、わが国の教育が正常でないことを察するに足りる。実に大学入試の事態において教育のガンが伏在していることを思わざるをえないのである。

問題の第二は受験の難関を突破した学生が今やわが事成れりと考えて、向学の精神を失い、場合によっては驕慢心(きょうまんしん)さえ生ずるのは自然の勢いであろうが、これに対して大学の指導誘液(ゆうえき)が徹底しているであろうか。ここに重大な問題がある。受験準備の激しい勉強の反動としてかえって怠惰の弊風を生じ、しかも大学はこれをこれを放任し、難渋なのは入学であって卒業は安易だという事態はないであろうか。

第三に大学は人間形成の場といわれるが、大学における人間形成という意味が十分に考えぬかれているであろうか。

第四に、今や交通機関の発達によって世界は時間的に狭くなり、彼我の往復交際の著しい発展にかかわらず、大学卒業生の実用語学力が不十分なことはないであろうか。たとえ読書力はあっても話し書くことができぬというのでは、今日の世界事情に対処することは不可能である。ここに大学教育における一つの問題点があると思う。

普通の学力で入学

わたしの母校で、現にわたしが校長をしている独協学園は父母達の熱望によって大学を設立することとなり、教育のことはわたしに一任された。わが国の大学教育について上のような問題を持っているわたしは、それらの点を是正した大学を創設するならば、わが国の教育に一寄与をなしうることを信じ、あえてこの難事業に踏切ったのである。独協大学は経済学部、外国語学部(教養学部といってもよい性格のもの)のニ学部から成る。前者は経済学科を、後者は英語学科とドイツ語学科とをふくみ、近い将来にフランス語学科を加える予定である。

(一)入学試験については、外国語と作文だけを試験する。外国語といっても特にすぐれた学力を要求するわけではなく、高校卒業の普通の力があれば十分である。わたしの試みは大学入試の全般的解決を目ざすものではなく、受験準備を要しない一大学を日本教育に加えようという意図に出ずるものである。準備を要しないといっても、もとより比較的のことであろう。しかしいわゆる受験準備に比すれば無きに等しいといえると思う。

厳重な勉強を奨励

(ニ)受験準備を要しないが、勉強しなければ卒業できない。入学はやさしいが卒業はむずかしいこと、一般の大学と逆である。したがって厳重に出席を要求し、勉強を奨励する。

(三)人間形成はスポーツ、茶道、宗教的修行等々さまざまな方法を通じて為されるが、大学の人間形成は勉学によるのが本道で、その他の方法は副次的であると、わたしは考える。学問を媒介とした人間形成が大学の本質でなければならぬ。

(四)外国語学部の学生はもちろん、経済学部の学生も四年間を通じて二カ国の外語を学び、第一外国語は実用後をも身につけることを目標とする。これまで実用外語の達者な人はとかく軽薄のそしりを受けたが、独協大学の卒業者は教養があり、しっかりした精神的背景を持ち、しかも外語を自由にする人格であることを期するわけである。

生涯最後の仕事

わたしは京大教授時代およそ二年間、学生課長を兼務した。そうしてわたし自身不思議に思うほど強い関心と親愛とを全京大学生に対して感じた。当時の京大生はわたしの教育愛に共感し、実に素直に従順によくわたしの指導を受入れた。今は時代がちがうと、ひとはいう。今日の学生は果してわたしの教育愛を感得し、新大学の理想実現に協力してくれるであろうか。わたしの生涯の最後の、そして決定的な賭(かけ)がここに横たわることを思わざるをえない。

(昭和39年4月1日 朝日新聞より)

昭和39年4月1日 朝日新聞より

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